母、兄へ「いまは幸せ」 震災遺児がどん底で出会った妻との二人三脚

阪神大震災当時住んでいた地区の慰霊碑に手を合わせる大田誠さん(手前)、(右から)妻久美子さんと子どもたち=神戸市東灘区で2024年12月29日、長澤凜太郎撮影

1995年1月17日に最大震度7を観測した阪神大震災から間もなく30年。神戸市や兵庫県南東部の阪神地域、淡路島を中心に甚大な被害が出た。6434人が犠牲になり、3人が行方不明のままだ。

戦後最大の都市型災害は、親を失った震災遺児を多数生み出した。

兵庫県三木市の大田誠さん(41)もその一人。母と兄を失い、借金を重ねた父は失踪した。遺児として生きる中で、あの日のことを語ることはなかった。その後、一人の女性と出会って結婚。ある日、妻に向かって長年消えることのなかった自責の念をぽつりぽつりと語り始めた。母と兄が亡くなったのは「僕のせいや」と。

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次第に弱まる兄の声

大田さんは神戸市東灘区で、寡黙で厳しいトラック運転手の父と優しい母に育てられ、兄2人、妹の6人家族だった。

あの日の午前5時46分、きょうだい4人は同じ部屋で眠っており、隣の部屋には両親がいた。

2段ベッドの下段が寝床だった当時小学5年の大田さんは、「ドン」という衝撃音で眠りから覚めた。目の前にはベッドの上段が迫り、何が起きたのか、分からなかった。

阪神大震災で亡くなった大田あい子さん=大田誠さん提供

「あい子、あい子」。隣の部屋からは父が母あい子さん(当時36歳)の名を必死に呼ぶ声が聞こえた。

真っ暗闇のなか、大田さんはきょうだいの名前を順番に呼んでいった。

次兄の亮さん(当時13歳)に「りょうくん……」と呼び掛けると、初めは聞こえていた兄の声が次第に弱々しくなり聞こえなくなった。

倒壊した木造2階建てアパートの1階部分から大田さんと妹が先に近所の人たちによって救出された。避難所となっていた小学校に移動し、家族が来るのを待った。

だが、昼ごろ悲報が届いた。

「お母さんと亮くんが亡くなった……」。近所の人からそう告げられた。

「僕のせいや」。大田さんは前夜の出来事を思い出して、そう思った。

夕食時、大田さんはふざけて茶わんのご飯の上に箸を刺した。父から「亡くなった人にすることや」と厳しく怒られた。

「あんなことをしなければ……」。自責の念に駆られた。

阪神大震災で亡くなった大田亮さん=大田誠さん提供

震災当日の記憶はそこで途切れている。

しばらくして長兄、妹とともに和歌山県の祖母宅に預けられた。神戸へ戻ったのは1年後の春。中学入学の直前だった。

久々に通学路を通ると、母と兄との思い出があふれてきた。「ここで亮くんと遊んだな」「お母さんと買い物したな」。恋しくなってアパートの跡地周辺を一人歩いた。

家族離散に

再び神戸のマンションで一緒に暮らすようになった父も悲しみと闘っていた。酔って帰宅すると、仏前で母の名を呼びながら肩を震わせた。

父は生活のために借金を重ねていた。中学を卒業した大田さんは働き始めた。そのうち、借金取りが家を訪れるようになった。

ある朝突然、父親から「引っ越しをする」と告げられた。行き先は父親の知人の会社の寮だった。しばらくすると、父は姿を消してしまった。

「お父さん、帰ってないんやろ」

会社側は滞在を黙認してくれていたが、数カ月たった頃、退去を求められた。

「自分だけなら家がなくても生きていけるけれど、アルバムや仏壇など家族の思い出の詰まった荷物をどこへ持っていけばいいのか」と途方に暮れた。20歳の冬のことだ。

運命の出会い

出会った頃の大田誠さん(左)と久美子さん=大田誠さん提供

大田さんが「どん底だった」と振り返るこの時期、運命を変える出会いがあった。

当時、仕事帰りや休日に、震災遺児のためのあしなが育英会の施設「神戸レインボーハウス」(神戸市東灘区)に足を運んでいた。そこには同世代の遺児の仲間がいた。

「誰も震災のことを無理に聞こうとせず、安心できた」。ゴロゴロしたり卓球をしたりと、のんびりとした時を過ごした。

そこで出会ったのが久美子さんだった。神戸に隣接する三木市出身で高校時代、友人に誘われ育英会の募金やチャリティーイベントに参加。短大進学後は、レインボーハウスのボランティアスタッフをしていた。

ある日、募金の準備に奔走していた久美子さんは、大田さんに「手伝ってよ」と声を掛けた。

「どうせ来んやろ。チャラそうで、活動に関心がないわ」と、久美子さんは期待していなかった。だが、彼は姿を見せた。懸命にチラシを配り、募金への協力を呼び掛ける姿から印象が変わった。「根は真面目なんや」と久美子さんは見直した。

2人はボランティアと遺児という立場の違いを超えて同じ時間を過ごすようになった。ひかれ合い、ともに「この人と結婚するかも」という特別な思いを持つのに、そう時間はかからなかった。

大田さんは久美子さんに、父が失踪し、寮から退去を迫られていることを相談した。

「自分一人なら公園でもいいが、捨てられないものがある。仏壇とか家族の写真とか……」

久美子さんと一緒に親戚に相談し、大田さんは居候させてもらうことになった。久美子さんには、役所での転居手続きができていなかったために未納だった国民年金などの手続きも手伝ってもらった。

久美子さんは、どこに行ったか分からなかった母と兄の遺骨の安置場所も捜し出してくれた。大田さんが記憶していた葬儀のお経などから宗派を絞り、可能性のある寺院に電話をかけ続けた。

2004年11月、2人は結婚した。

失踪した父との再会

「ドンっていう音がしてな……」

公民館脇にある慰霊碑の前で話をする大田誠さん(左)と妻の久美子さん=神戸市東灘区で2024年12月29日、長澤凜太郎撮影

結婚間もないある夜、夫はぽつりぽつりと語り始めた。自宅アパートの倒壊、震災前夜の悪ふざけ、消えることのなかった自責の念……。妻は静かに聞いてくれた。

「まこちゃん(誠さん)のせいやないよ」

話し終えると久美子さんにそう言われ「ホッとした。聞いてくれる人がいることが、何より心強かった」。

自身の震災体験を伝えたのは、彼女が初めてだった。レインボーハウスのスタッフにすら「口下手だから、伝えられるとは思えなかった」。だが「大切な人だから、知っておいてほしい」と話す気になった。

結婚翌年には長男が生まれた。名前は犠牲になった亮さんにちなんだ。

この頃、偶然父の居所を知る出来事があった。久美子さんは、手紙を送って子どもの誕生を伝えた。

「会って何を話したらいいのか分からない」。大田さんは父と会うことを戸惑っていたが、子どもが成長するにつれて自分の口からも伝えたいと思うようになった。

ある日、長男を抱いて、父に再会した。「ごめんな」。そう繰り返す父だったが、息子は「生きてくれていたことがうれしかった」。恨みや怒りは湧かなかった。

「亮に似てるな」。父は孫をいとおしそうになでた。

大田さんは肉親を失った経験から、人との出会いを大切にしてきた。同じ境遇の震災遺児とのつながりは特別だ。

結婚前のデートでも「一緒に楽しみたい」と遺児の友人を誘った。久美子さんにも「(他の震災遺児が)幸せになれるよう協力してあげてほしい」とお願いした。

次女が生まれ、母子が退院した時には「赤ちゃんを見せてあげたい」と大田さんは友人たちを家に招いた。

久美子さんは、遺児仲間を優先する夫の姿に「どうしたらええの」と困惑することもあった。そんな時は、大田さんの母が眠る墓に向かう。会ったことはないが、義母がそばで支えてくれるような気がするからだ。

昨年、結婚から20年を迎えた。長男は高校を卒業して社会人に。長女、次女も震災時の亮さんの年齢を超えた。毎年、家族で慰霊碑を訪れる。「母と兄のことを(子どもたちにも)覚えておいてほしい。大切な人が震災で奪われたことを」と大田さん。

震災からの出来事はいまとなっては、つらかっただけの記憶ではない。「震災を経たからこその出会いが多くて。くみにも出会えた」

妻も思いは同じだ。「(遺児だった夫が)一つ一つ前に進んでいく姿を見られるのがうれしい。まこちゃんにとって、いなくてはならない存在になれたかな」

24年12月下旬の昼下がり。東灘区の公民館脇の慰霊碑に、大田さんら家族5人の姿があった。震災当時、大田さんが暮らしていた街だ。

「久しぶりやなあ。家族で来たよ。いまは幸せやで」

大田さんは慰霊碑横の銘板にある母、兄の名前をティッシュでそっと拭い、心の中でそう語りかけた。久美子さんや子どもたちも、そっと手を合わせた。【幸長由子】

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